就職活動記としてまとめて記事を上げます。それに伴う、僕自身の大学入学からの思いや状況なども書いていこうと思います。(今回の記事は本当に個人の記録用という感じです。その点ご了承ください。(。。)ペコッ)
ちなみにめっちゃ長いです。しかも2本に分かれます。続編の”就職活動記2”は2016年5月に入ってから書きます。
2015年のブログ更新が少なかったのには理由があります。…そう、就活です。
このブログ&自分の性格上嘘は書けないし、ぼかして書くにも限界があったので…。「ありのままに現在進行形で書く」より、「後からまとめて報告する」方法を選びました。なので更新できなかったんですね…。
-- 大学・学部生時代 --
小学生時代は「医者になるー!」などと言っていたのですが、中学入学後から成績はどん底を這い回っていて、高2の頃には医学科などと言える身分ではなかったのです。
そしていざ進路を決めるとなった時、自分が興味を持ってずっとできることは何か…?と探して、見つけた/思い出したのがオカヤドカリのことなのでした。
彼らの生殖行動(放幼生行動)は新月・満月に合ったもので、時間生物学的なところに興味を持ったのでした。
大阪の高校を卒業後、2010年に琉球大学 理学部 海洋自然科学科 生物系に入学しました。
そのときは将来の職業についてはぼんやりと「研究者になりたいな」としか考えておらず、今思うと恐ろしく無計画だったのですね。
1年次~3年次前半あたりまでは、共通教育(教養)科目をうけたり、吹奏楽部に入って楽器を演奏したり、車でドライブしまくったりと、大学生活を謳歌しておりました。
3年次後期になり、希望する研究室に配属されてからは、当初からの野望(?)であったオカヤドカリの研究を始め、卒業研究では、「沖縄本島に生息するナキオカヤドカリ
Coenobita rugosusの生殖の季節性と放幼生行動」という題名で、
1) 組織学を使った繁殖期の推定(組織学:プレパラートを作成して細胞を観察するもの)
2) 放幼生行動の観察・記録
3) 1日における場所の違いによる出現個体サイズの変化の記録
4) 光(明暗)に対する行動の変化の記録
…などを行い、最後のポスター発表で無事卒業の要件を満たすことができました。
そして卒業時には、学部長賞をいただくことができました。
これは、生物系の中ではGPA(成績)がトップだった、というもので、もちろんいただけて嬉しいではあるのですが、実際自分は教職の単位(学校の先生になるためにうける講義)や、学芸員資格取得のための講義をうけていなかったため、GPAが落ちづらかった結果取れただけなのかもしれません。
ちなみに、残念ながら各学部から1名ずつ選ばれる「学長賞」は逃しました。 学校の成績に加え、講義に全部出席していたり、課外活動などで優秀な成績を収めているなどなど、さらにプラスの条件が必要だったようです。
-- 大学院1年次(M1) --
さて、学部の卒業後、僕は何の迷いも無く琉大の院へと進学しました。正式名称は、「琉球大学大学院 理工学研究科 海洋自然科学専攻」。
どうでも良いことなのですが、個人的に「漢字で長い所属を言う/書く」というのがカッコイイな、などと大学入学時に思っていたのですが、院のそれは学部のものより長い文字数だったのでした(17字→21字)。 まぁ履歴書を書くときにはそれら両方の入学&卒業(修了見込)を記入するので、手間が大変でしたが…。
閑話休題、院に進んだのは、「オカヤドカリの研究者になりたい」という大学入学当初から思いがまだあったことと、「せっかく沖縄に来てオカヤドカリの研究をやらせてもらえてるんだから、学部の1年半だけで終わらせるのはもったいない」という思いからでした。
修士1年目では、琉大吹奏にちょくちょく顔を出したりして(学部1年次のふりをして混じってから正体を明かして驚かす伝統も…。趣味は良いとは言えないですね)楽しみつつも、1ヶ月に1回のサンプリングやその処理、夏には集中的に行動観察等に行ったり、冬にも実験をやったりして、ほぼほぼ修論が書ける状態にまでデータを蓄積しました。
修論は大きく2つに分かれており、
1) 生殖年周期の記録(卵を持つ個体の割合、卵巣重量の割合、組織学の3つによる)と、「繁殖期」を引き起こす環境情報の特定
2) 放幼生行動の記録(及び、産卵のタイミングの特定)
といった感じで、卒論とは違って生殖の研究に特化しています。(卒論では日内行動:1日における行動の研究がありました)
「1年目でほとんど研究を終わらせた」みたいな感じになっていますが、正確にいうと、M2に入ってからは就活(勉強)のため、実験がほとんど出来なかったというのが実際のところですね…。1年目にいっぱいやっておいて良かった感があります。
-- 就職活動記 --
やっとこさ本題です。
M1の夏から、就職のことについてやっと、本当にやっと考え始めました。
その頃には、「ヤドカリの研究職はやばい、というか絶対無理」というのは分かってきていて、何が「やばい」のかは、少し調べてみれば良いことだったのですが、それまで自分には無関係だと思っていました。(今考えると恐ろしい)
自分は、生物の研究をするならオカヤドカリだけ、という妙なこだわりがあり、何故かというと、他の生物種の研究をする、となるとモチベーションが全く出てこなかったからです。(いろいろな研究結果を知ったりするのは好きですけどね)
生物の研究というのは職が限られていて、さらに自分の興味のあるオカヤドカリに関しては、企業や水族館の研究職に入るわけにもいかず(そもそも研究対象としてあまり見られていない…。ヤドカリ自体の論文も少ないし)、ポスドクとして各地を任期付きで転々とし最終的には大学の助教のポストが空くのを待つ、といった未来が想定されました。
そんな現状で、果たして自分は生涯をかけてオカヤドカリ研究をする覚悟はあるのか、研究を仕事として成り立たせるのか、そして自分はいつまでオカヤドカリへの興味を持続させられるのか、
…などなどといった現状や不安から、研究職へのあこがれ、というか自分が研究者になろう、という思いは薄れていきました。…いや、あこがれはありますね。できれば好きなことを研究して生活していたい。けれども現実的でない…と自分は考えました。
-- 大学事務 --
さて、では何が良いかな、自分には何ができるかな、と考えてまず出てきたのが「大学事務」でした。
もともとパソコンを使った事務作業は得意だし、大学の研究を裏から支えられる仕事というのはとても良いもののように感じました。それに、研究のこと(研究職に関するあれこれ)については修士に入っているということで、少しは分かっているという部分もありました。
それに、琉大の事務に就職できれば、今所属している研究室にも通うことができ、「趣味的に」研究を継続できるかな、ということも良い点でした。あわよくば社会人博士課程で、論文博士になりたいな、という野望もありました。(その博士号で研究職になる、ということでは無いです…)
大学事務は、「国立大学法人」が地域毎に募集・試験を行います。
法人化される前は公務員であった名残か、1次試験では公務員試験の様な一般教養(40問・2時間)が出題されるという情報を得て、M2の4月から、公務員試験の勉強を始めました。
大学事務の1次試験は8月23日。約4ヶ月の間、研究のことはとりあえず脇に置いておいて、一般教養の勉強を続けました。
内容は、40問中、20問は知能分野(判断推理、数的推理、資料解釈など)で、あと20問は知識分野(社会科学、自然科学、人文科学)とちょうど半分に分かれています。
知能分野は結構得意で、パズル感覚で解けたため、あまり不安に感じることは無かったのですが、問題は知識分野の日本史・世界史あたりでした。人名や歴史上の事件などを覚えるのはとても苦手で、最後の最後には世界史を捨てました。考えてみたら高校生時代も世界史はうけていなかった…。
物理は思いのほか面白く(センターからは逃げたのに)、社会学や経済学も思ったより苦戦はしませんでした。
模試がわりに、国家総合職や国家一般職などを受験してみましたが、レベルが全然違って(知能と知識の出題割合も違う)、なかなか打ちのめされましたね…。知能分野が結構難しく時間を取られるイメージ。知識分野についてはまだそんなに覚えていませんでした…。
あと県庁は受けるのを忘れていました。「友人に受けた方がいいよ~」と言われて、そうだな申し込みしようか、となったのが総合職を受ける日で、その日に締め切りだった気が。もったいない。
そしていよいよ大学事務1次試験。できる限りの実力を出し、「やるだけはやったけど、それがボーダーに届いているかはわからん!」という感想でした。
ただ、模試というか想定問題などでサクサク解いていた知識分野の問題が、やはり本番ということもあって少し慎重に時間をかけすぎてしまった感じはしました。知能分野は2,3問を除き正解している自信はありました。
9月15日、1次試験の結果発表がありました。結果は無事合格。
1次試験の時には琉大が試験場だったのですが、共通教育棟をほぼ全て埋めた(ウワサに聞くと、沖縄地区で受験希望したはずが九州で受けることになった人もいたとか?)800人以上?いた受験者は、1次試験終了時点で98名ほどにまでなっていました。
その後、初めて書く履歴書や面接の練習のため、琉大の就職課に2週間ほど頻繁に通っていました。
-- 大学事務2次試験(集団討論) --
2次試験は、まず集団討論が10月1日にありました。集団討論についての説明は省くとして、お題は「大学における障害者支援の在り方について」というもので、討論直前、集合時にあらかじめ進行役、タイムキーパー、発表者、書記などを決めておく方式でした。自分は特に役職を持ちませんでした。書記と発表者は同じとしました。
11:30 集合時間。7人の班だったはずが、1人来なかったため6人で。はきはきした人が進行役になり、発表者は社会人の女性となった。
11:45 討論開始。30分間を自由に使え、最後は発表者がまとめを発表して終わる。
感想としては、
マイナス点:
(全体)討論の内容が表面的だった。まとめが少し雑だった。最後あたりに時間が余ってしまって沈黙の時があった。
(自分)人の言葉にかぶせてしゃべってしまった時があった。変な意見を出してしまった。もにょもにょしていたと思う(←当時のメモより。なんじゃこりゃ)
プラス点:
(全体)リーダー・進行役がはきはきしていた。最初は意見が多く出た。ホワイトボードを活用できた。
(自分)光っていると思う意見・ツッコミを言えた。障害の定義付けを提案できた。一般的な内容になっていく話の流れの中で、大学ならではの、という言葉を口に出せた
…などなどがあります。これは全てぼく個人の感想なので、本当にプラスだったのか、マイナスだったのか、は分かりません。
そして同日19:50分頃電話が来て、集団討論合格との報を頂きました。
最終面接の日程と時間が教えられ、2次試験(集団討論)は終了。
合格の通知の電話を18時~22時までの間にする、ということは、一人あたりの電話の時間を5分~10分とすると、24~48人。
最終面接は10月2日、5日、7日、8日のいずれかに行うとのことだったので、1日あたり面接できる人数を5~10人とすると、20~40人。
という感じで、集団討論を通ったのは30人前後と見て良いかな、などと考えていました。
最終的に取る人数は告知されていたもので13人。倍率は2~3倍かな……という感じですね。実際のところどうだったのかは分かりませんが…。
-- 大学事務2次試験(最終面接) --
自分の面接は10月5日に行われました。
集団討論は木曜で、金曜の琉大就職課はもう埋まっており、土日は閉まっていて、次の月曜日が面接の日だったので、結局面接の練習はこれ以上できませんでした。
面接では3対1で(もちろん自分が1)、向かって左の人が全体的な進行役、中央の人が本命の質問役、右側の人が一般的な質問役という感じでした。
自分はやはり、「このまま研究職に行った方がいいんじゃないの」という感じのことをけっこう何度も言われました。研究への思いは確かに強いのですが、それをどうやって事務へと昇華させたのかを説明・納得させられなかった感がありました…。
右の人は、部活のことなどをサラッと聞いてきたりしました。
最後に左の人がこんな質問を。「働くことと仕事をすることの違いは何ですか」
ん?は?っとなってしまいました。同じじゃないかと。何とか答えを絞り出して答えましたが、これへおそらく、回答内容よりも、反応を見るための質問という感じがしましたね…。
一番最後にこちらから質問することができたので、これからの財源獲得のためにどういう人材が欲しいのか、という話や、先ほどの「働くことと仕事をすることの~~」を逆質問したりして終わりました。
手応えとしては、やはり中央の人の質問に全てが集約されていた気がします。
自分は研究協力関係のところで働きたい、と言ったのですが、「では経理や総務など、そこ以外のところに配属されたらどうしますか」という質問に、素が出てしまって、「直接研究には関係なくとも間接的に関われているのでモチベーションは保てると思います」とか何とかいってしまった気がします。 モチベーションてあかんやん。
結果は19日までに電話連絡する、と言われたのですが、実際はその週のうちに来ていたようですね…。某巨大掲示板にその情報を見たのは19日のこと。前に見て無くて良かった、と思った次第であります。
そう、最終面接に落ちてしまったのです。
-- 北〇備と中〇村役場 --
大学事務を一番に考えていましたが、せっかく公務員試験用の勉強をしてきたんだからな…ということで、市町村役場の受験も視野に入れていました。
沖縄県内には居たい、ということで離島から北部までいろいろ探してみましたが、やはり自分が入学当初から住んでいる所が思い入れも深いし、最近開発で琉大東口周辺も賑やかになってるし…というわけで、中〇村(一応隠します)を受験することにしました。この時点ではまだ大学事務の結果はわかっていません。
村役場は、1次試験(筆記)→小論文→面接という感じで、小論文と面接との間に日数は空きますが、小論文終了段階ではまだ合否は決まらないようです。(1次試験さえ通っていれば、小論文がどのような出来であれ最後の面接にまでいける)
村役場を受験するにあたり、「住所用件」というものがあり、これはその村に在住している人しか受験できない、というものでした。
1次試験は無事通過でき、約40人いた受験者のうち5名に滑り込むことに成功しました。
その後、2次試験に必要な書類として、”住所要件を確認できるもの”が必要だったのですが、実は僕は住民票はまだ地元に置いてあり、沖縄には無かったんですね。
一応、そういうことも1次試験が始まる前に電話で問い合わせてはいたのですが、どのような書類を出したら良いか、もう一度問い合わせてみたところ微妙な反応が…。
「もう一度、後日お電話しますね」と言われてから5日間ほど音沙汰がなかったので、(あっ、これはもう駄目なやつなんじゃね…)と思いました。
というわけで、もう残っている手札が無かったので那覇にある新卒ハローワークに行ってきました。
そこで、九州地区で強い某北〇州予備校のチューター(ホームルームの管理など、担任のような役割)の沖縄校での募集を見つけ、連絡を入れました。
こちらは、書類選考→面接→筆記試験、という順番になっていました。
幸運なことに、書類が向こうに届いたと思われる段階ですぐに電話がかかってきました。
そして面接の日時を決定しました。
その後、村役場から電話が入り、借りているアパートの賃貸契約書のコピーを提出することにより、そちらも受験可能ということになりました。
もともと役場が駄目そうだったので〇予備を受けようとしていたのですが、手札復活ということで、そちらをどうしようかと悩みました。(役場の方が個人的には良いと思っていました)
時系列としては、
北予〇の面接
↓
役場の小論文
↓
役場の面接
だったので、悩んだ挙句、予備校には正直に全部を話しました。
沖縄校の担当の方はとても良い人で、役場の結果が出るまで最後の筆記試験は待ってくれると言ってもらえました。つまり、面接はOKだということ…!
「是非来てほしいけれども…役場かぁ…そうだよねぇ…」と言ってくれました。ありがたいことです。
そして、村役場の小論文に臨みました。
小論の題は、「村の職員として地域住民のために貢献できることを書きなさい」みたいな感じだったと思います。メモをするのを忘れてしまいました。
字数は1000字で制限時間は60分。
村についての下調べ・情報を得ることに夢中になってしまい、小論文対策は全然できていませんでした。最初の30分を使って文章を考えて下書きし、残り30分できれいに書く…という作戦をとったのですが、失敗でしたね。最後に時間が足りなくなり、後半の字が汚くなってしまいました。内容もそんなに…全然…というものでした。
そして面接。お偉い人たちが6人ほど並ぶ部屋で一人で受け答えしました。
「沖縄のいいと思うところは?悪いと思うところは?」の質問をはじめ、小論文で書いた内容への言及、生物系だけどそれをどういう方向に活かせるのか、という話などなどをした記憶があります。面接自体は、そんなに変なところもなく終わったと思います。
…いや、最初の「沖縄で悪いと思うところは?」の返答が駄目だったかもしれません。県民性とかの話をした記憶が。村職員があんな考えを持っていていいのか?
結果は…、まぁ落ちました。小論文も満足にできていなかったですし、面接では上記のようなことを口走ったので……。原因を聞ければいいんですけどね。
残された手札は1枚、北予〇。
役場を落ちた旨を沖縄校の人に伝えると、先方はめちゃくちゃ驚いていました。
そして後日筆記試験を受けました。これは、自分の得意な科目を1つ受けるものでした。僕はもちろん生物を選択。試験自体はセンター模試のようなもので、60分ほどの時間で終わりました。出来はまぁ、普通に大丈夫かな、という感じ。腎臓あたりの知識が抜けていたので、80点か70点かといったところかな…
-- 名〇大学事務と美ら〇財団事務と北〇備 --
さて、北〇備は結果待ちという状況になりましたが、いかんせん手札が1枚だけでは不安というもの。この時点で2015年も終わりを迎えつつありましたが、まだ募集を出しているところはあるのでしょうか?
ありました。
名護にある公立大学「〇桜大学」の事務と、美ら海水族館等を管理する本部にある「美〇島財団」。こちらは植物系と事務系の募集が出ていたのですが、自分は動物系の人間なので事務を選択しました。
時系列で書いていきますね。丁寧語も面倒なので外すときもあります(ケータイのメモを参考にしつつ書きます)
1月21日 美〇島財団1次試験
一般教養。60名ほどが受験していた。SPIのような試験だった。
1月24日 名〇大学事務1次試験
13時に開く。一般教養。公務員試験よりはSPI試験に近い。70人ほどが受験していた。
1月28日 北予〇の内定(電話)
沖縄校から電話が入り、内定が決まったとのこと!!いえーい。
3月にはバイトとして入り引継ぎ等を行ってから、4月から正社員になれると言われました。
ち な み に この通話はとても嬉しかったし、証拠にもなると思ったので、録音して保存しておきました。(※以降で重要になります)
1月31日 〇ら島財団2次試験
1次を通ったのは12名でした(事務のみの人数)。2次試験は小論文で、題は「当財団がお客様に提供できる新しいサービスを提案しなさい」というものだった。1200字90分。
これは役場の時と比べ、時間配分も内容もいい感じに書けたと思う。海洋博記念公園はよく遊びに行っていたし、水族館以外の施設についてもよく知っていたので。
2月5日 北〇備から最終面接の連絡
あれ??????????おかしくないですか???????????
何が何だかよくわからないけれども、福岡にある本部で最終面接が行われることになりました。
沖縄校の人は、「普通にしてたら落ちないよ、今、沖縄校で欠員出てるし」みたいな感じに言ってくれたけれども、僕としてはあれ????ですよね。
ちなみに航空券代は向こうが出してくれました。福岡行きは23日に。
2月14日 〇桜大学2次試験
午前中に小論文、午後に面接。小論文は「あなたが最近興味を持った社会での出来事について考えを800字以内で述べよ」。80分の制限時間。
面接は1人10分程度で、一人ずつ受験番号順だった。最後の方の番号の人は待っている間暇そうだったな…。
内容は、「学生や保護者とどう向き合うか」「大学で何がしたいか」「コミュニケーション能力を5点満点で採点すると自分は何点か。またその理由は」「自己研鑽していることはあるか?なければ何がしたいか?」などだった。
1次試験を受けた約70名のうち、突破したのは15名。2次試験を受けに来たのは12名だった。
小論文は、論理的な書き方を徹底したが、選んだ内容と主張がまずかったかもしれない。面接では、内容はともかく、滑舌がとても悪かった記憶がある。
2月23日 〇予備最終面接
福岡へ飛ぶ。
一度オーケーの電話をもらっているのに、なぜだ?飛行機と新幹線のチケット代は向こうが出してくれているが、どうも手切れ金の代わりのような気がしてならない。
面接では、沖縄校と同じようなこと(志望動機など)や、さらに突っ込んで、博士課程の話や、沖縄以外に配属された場合どうするか、といったこと、はたまた彼女がいるのかどうかという結構個人的な話にまでなった。
感触は変ではなかったけれども、これで落とされたらシャレにならんでぇ…と思った。
2月24日 美ら〇財団3次試験
12名→8名になっていた。1人辞退してこの人数になったらしい。
面接では、最初の自己PRで詰まってしまったのを筆頭に、真ん中の一番お偉いさんっぽい人に、「どうして事務なの?」「研究したいなら、水族館に契約社員として入ってからいろいろできるけど?」「院卒の人を入れたことあるんだけど、すぐ辞めちゃったんだよね」などと言われてしまった。
圧迫面接なのか?しかし研究→事務へ行く確固たる理由を説明できなかったのも確かではある……。とりあえず感触としては最悪であった。
-- 結果編 --
きれいに全滅であった。
2月26日 〇ら島財団
4人が通った模様。僕はもちろん落ちていた。まぁあの面接で通そうとする人はいないよな…
2月29日(たぶん) 名〇大学
封筒が入っていて、すわ!!と思いきや落ちていた。
2次試験から時間が経ちすぎていた。もし通っていたのならすぐに通知を送って、違うところへ行く可能性を減らすだろうから、1週間以上連絡がなかった時点でなんとなく察していた。
3月16日 北〇備
時間が経って3月に入っています。13日~16日の間、実家に帰省していた。いろいろあって、タイミングがこの時にしかなかったんですよね。
沖縄に帰ってきて郵便受けを覗くと封筒が!!いえーい!やっと文書で来たぜー。と思いつつ部屋で開くと…
落ちてました。
あれ?僕、書類選考→面接→筆記試験と受けて、内定の電話も貰いましたよね?(※録音もしてます)
ハローワークの紹介で行ったんだけど、そこの紙にも最終面接とか書いてませんでしたよね?筆記で終わりって説明されたけど?
何故に?
沖縄校の人に電話を入れるとめちゃくちゃ驚いていました。(演技ではないと信じたい…)
沖縄で欠員が出ていて、かつ沖縄で最後まで受けた人がおそらく僕だけのようだったので、一度問い合わせてくれるとは言ってくれましたが…。音沙汰はそれ以降ありませんでした。おそらく本社というか本部がいきなり入れてきたんだろうな…という感じでした。
しかし、一度決定したはずの内定を無くすとは…。通話録音でゴネルこともできそうですが、その時点で僕に余裕はありませんでした。
どうしてかって?
今まで書いてきたことからわかる通り、M2での就活は前戦全敗。大学院修士を修了した後、うんこニートへとジョブチェンジしてしまうことが決定してしまったのですから。
-- --
…というわけではありません。
「こんなこともあろうかと」保険として受けていた”博士課程”は通っていました。
修士での研究の成果報告と、博士での研究計画を教授たちに発表するという試験はあったのですが、無事通っていました。
本来は、「仕事をしつつ、長期履修制度を利用して6か年計画で博士号取得を目指す」ために受けていたのですが、まさか、何かしらの身分を保持するため、学生の博士として2016年度を開始してしまうとは夢にも思っていませんでした。
-- 総評 --
・「こんなこともあろうかと」はかなり大事。可能性は広げられるだけ広げておいた方が良い。
・やはり研究から事務系への転向は僕には難しいようだと思った。
自分のやりたいことは研究活動だし、すべてにおいて「長期履修で博士号を取得したい、趣味的にでもいいから研究したい」と正直に言っていたのだが、それが向こうの評価のマイナスになっていたと思う。事務に目を付けたのも、”パソコンがまぁふつうに使えるし、事務系の仕事ならすぐ適応できるだろう”という消極的な理由だった。
そして何より僕にコミュニケーション能力が足りないこと、滑舌も悪いことが一番の原因だったのでは?と思う。
そんな感じで終わってしまった2015年度(修士2年次)の就職活動。
博士課程に進むことになった24歳男性!
どうなってしまうのか!?
という感じで締めさせていただきます。
冒頭でも書きましたが、「就職活動記2」の記事を5月(来月)くらいになったらアップします。
そのことからわかるかもしれませんが、何かいい方向に進んだんだな、ということを察して頂けると嬉しいです。
それでは!
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